「徳」を積む生き方
「徳」とは、なんでしょうか?
よく「徳を積む」とか、「徳がある人」「徳がない人」など、聞いたことがあるかもしれません。簡単に言うと「徳」がある人は運が良く、神様や仏様に守られています。
神様は「人それぞれの心遣いに応じて、天からあらゆるものを与えてくださる」と仰られます。心遣いとは「神様の思いに沿う良い心遣い」の事を言います。
そして、これまで積んできた良い心遣いを「徳」と言います。神様はそれぞれの「徳」を受け取り、それに応じた「与え」をくださいます。
言い換えると、人はそれぞれの積んできた「徳」を支払うことで、「与え」をもらっているという事になります。
人間の世界では、お金を支払い、物を買う仕組みが常識ですが、神様の世界では、それぞれの持つ「徳」を支払い、それ相応の「与え」を得ている。というのが神様の世界の法則なのです。
世間では物に執着して、かえって損をしたり、お金や時間のやりくりが上手くいかなくて、悩んでしまう人が多いですが、それは「徳」の仕組みをよく知らないだけかもしれません。
「徳」と「与え」の仕組みを知ると「物ベースの思考」から「徳ベースの思考」に切り替わり、行動が変わって、結果的に本当の意味での「徳」をすることができます。
「徳」には、「目に見える徳」と「目に見えない徳」の2種類があります。
「目に見える徳」とは形ある「与え」。お金・着るもの・食べ物・住むところなど。
「目に見えない徳」とは形ない「与え」。人とのご縁・ひらめき・アイデア・タイミング・感・センスなど。
私たちの生活は、この2種類の徳のバランスで成り立っています。
「目に見える徳」はわかりやすいので、私たちはお金があれば大抵のことはできる、と考えがちですが、実はそれと同じ位、「目に見えない徳」は重要で、私たちの生活に大いに影響をしています。
例えば、「急いでいるのに渋滞にはまってしまった」「店に着いたら休業日だった」「ショッピングに行ったら駐車場がいっぱいで車をとめれない」「買ったものが別の店の方が安くてショックだった」
このように「こんな時に限って」「ついてないなぁ」となるシーンがあります。
ここでのポイントは、「目に見える徳」「目に見えない徳」どちらが大切かではなく、「必要なときに、必要な与えをいただけることが大切」だということです。
「徳」と「与え」には流れがある
「give and take」というように「徳は出さないと、与えは入ってきません。」
しかし、人の為に働いたり、自分の物を分けてあげるのは、なんだか損した気分になり、実行するにはなかなか難しい事ですが、神様が仰るには、人の為に働いたり、物を与えるのは、お風呂の水を両手で前に押すのと同じ。自分が損をすると思って、これはなかなかできないもの。
お風呂の水をいくら押しても、水はすぐに横から帰ってくる。同じように、人の為に行動すれば「徳」は返ってくる。これが神様の法則。
また、逆に人を苦しめてでも手に入れたいというのは、自分さえ良ければ良いと思う心。これはお風呂の水を自分の方へかき寄せるようなもの。いくらかき寄せても、水は横から逃げていく。
自分に溜め込もうとしても、「与え」は逃げていく。お風呂の水が逃げていくように「徳」が逃げていく。
人のために働くのは損ではない。必ず自分に返ってくる。
そしてここでもう一つ大事なことは、
「自分の腕に収まる分の水しか抱えられない。」「それ以上の徳は溢れて逃げてしまう」という事です。
これは、水がいっぱいに入ったコップに、これ以上、水が入らないのと同じです。私たちは、生きているだけで、溢れんばかりの「徳」を頂いています。
身体をはじめ、お金や毎日の食べ物、着るもの、住むところ、寝るところの「与え」を頂いて生きています。
言わば、心のコップに「徳」がパンパンに入っているような状態です。心のコップとは?→「徳の入れ物」の事です。
神社での参拝で、お賽銭やお供えをしたり、大切な節目の前に御供えする事を「理立て」といいます。これは前もって、コップから「徳」を出しておくことで、充分な「与え」を頂くためのスペースを作っておくというイメージです。
コップがいっぱいなのに、まだまだ欲しいと言って、さらに「与え」を取り込もうとしても、もちろん入りません。あるがゆえにも欲しがる心、無理やり取り込もうとすると「与え」もこぼして「神様の思いに沿う良い心遣い」からかけ離れて、「徳」も減らしてしまうので注意が必要です。
しかし見渡してみると、人によって、持っている物や、運の良さが違います。みんな生きているだけで「徳」がいっぱいだとすると、なぜこんなに違うのか?と、不思議に思うかもしれません。それは、人によって持っている心のコップの大きさが違うからなのです。
では、どうすれば心のコップが大きくなるのか?
神様が仰るには「毎日毎日、『神様の思いに沿う良い心遣い』を積み重ねる事で、『徳』を受け取る十分な入れ物を作る事ができる」と仰られています。
「良い心遣いを積み重ねる」→「徳の入れ物が大きくなる」→「より徳を受け取れる」
日々の「良い心遣い」の実践は「徳」を頂くための準備だということです。
「徳」と「与え」には流れがある「徳の仕組み」
神様は、自分の持つ「徳」を支払い→「与え」を買っていると仰られました。
例えば、ご飯を食べると、その分「徳」の支払い済み、「与え」の受け取り済みとなるという事。
生まれてから今まで食べてきた物、着てきた物、自由に使ってきたお金や時間などは、すべて自分の徳を支払って手に入れているという事であり、それだけの幸せを身に頂いて生きてきたという事なのです。
そして神様は厳しい事も仰られています。「徳」を頂いて、たくさんの恩が重なっていき、頂くばかりで恩知らずになると、魂が動物のレベルに落ちてしまうと。
私たちは一度の人生で、どれほどたくさんの「徳」を頂いているのか想像もつきませんが、神様への感謝を忘れてはいけません。
「徳」は言い換えれば→「良い因縁」です。
「魂に積まれた良い心遣い」が、「身の回りに現れてきて」「与えとして頂ける」という事です。
徳の積み方
「徳」を積むとは、「人のために働く」という事。その上でどう働くか?が大事になります。ここでいう「働く」は、給料をもらって「働く」という事ではございません。
「働く」というのは、「はたはたの者を楽にするから、はたらく」と言います。「はたらく」とは「人に楽をしてもらうための心遣いと、行い」だと言えます。
ここで「徳」の積み方を3つご紹介します。
① 朝を感謝して迎える
「朝起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれる」1日の始まりにおいて、誰かに起こされるようでは良いスタートが切れません。
自分で起きて「今日も素晴らしい朝をありがとうございます」と感謝しながら気分良く一日をスタートすると「徳」を積めると言われます。
1日の中心は朝です。「早起きは三文の徳」と言われるように、それだけ朝は大事なのです。
② 陰で良く働き、人を褒める
神様は、「陰徳を積みなさい」「人を褒めなさい」と仰られます
陰徳とは→誰も見ていないところで徳を積む事です。
誰でも頑張ったら褒められたいし、お礼を言われたいと思います。しかし、神様は「人に見られていなくても、良い行いができる心遣い」を受け取ってくださいます。そして、人を褒めるというのは、心が低くないとなかなか出来ません。
自分は褒められなくても、人を褒めるという事。その低い心を神様は受け取り、大きな徳を積ませてくれます。
神様はあなたがしていることをちゃんと見てくれています。徳をたくさん積みたい方は、まずは人前の働きを、陰の働きに変えると大きな変化が起きるかもしれません。
③ 物を大切にし、後のことを考える
あなたは物を大切に扱っていますか?
物に当たったり、雑に扱ったりしていませんか?
物は何も言い返してこないです。しかし神様は見ています。この世のすべての物は神様からの借り物なのです。
物を粗末に無駄にしないで大切にすることが徳積みになる。また、こうすれば後の為になる、人の為になると、些細な事に気をつければ、陰徳になる。
こうすれば痛まない、こうすれば後の人が使いやすい、という心が大事です。粗末にするのは徳を落とします。
使いっぱなし、置きっぱなし、開けっ放しなど、後の人の事を考えない行動も徳を落とします。後の人への思いやりが陰徳として受け取られるといいます。
● これは徳を落とすという行動を紹介します
人の見ている目先でどのように働いても、勉強しても、陰で手を抜いたり、人の悪口を言っていては神様のお受け取りはありません。人の見ていない場面でも裏表のない正直な姿を神様は受け取ってくださいます。
まとめ
徳の積み方
① 朝を感謝して迎える
② 陰徳を積み、人を褒める
③ 物を大切にし、後の人を思いやる
徳を落とす
① 陰で手を抜く
② 人の悪口を言う
神様は「人を助けて我が身助かる」と仰います。
また「人にお礼を受けるような事では、それでその徳が勘定済になる」ともいわれます。
これは陰徳を積む事、人が見ていないところで徳を積む事が大切。というお言葉です。
ゴミを拾うも人助け。コンビニのトイレを借りたら、少し掃除するも人助け。人を親切にするのも人助け。
何でも構いません。小さい事からで良いのではじめてみてください。
人は生きているだけで「徳」がいっぱいです。その今ある「徳」で、人助けをしてほしいと神様は願っています。
一人ひとりが徳を積む生き方をしていくことで、素敵な未来が開いていきます。